インテンシブ

 

ちいさい頃に嬉しかったことの一つ、鏡のなかの自分が、すっかり知らない自分だったとき!

 

この鼻が、この目が、この輪郭が、この瞬きのしぐさが、この古びたこの鏡の中のこの生き物が、なんたる理由で私といえるのか?

この鏡という装置がそう定義するだけの、か全く別のもののように思えた、一瞬の感覚のはなしである。自己の理想と現実との膨大な差異によるフラストレーションが起因か、はたまた幼少期の曖昧なアイデンティティによる自己定義の誤解か。いまとなっては理由は探せば腐るほどある。

 

昼間は明るく皆と遊ぶ、アレルギーでかぶれて塞ぐことはあっても単細胞のおかげか輪に入ればはしゃぐ事の好きな、悪くいえば気の使えない子供だった。

だが、家はいつも不穏で不安な感情と環境のごった煮であった。心の中で自分と会話し、自己と他子に関する思考的な隔たりに疑問をかんじてうんうん考え続けるような時間をそれなりに楽しむ状況が日常化し、空想とあそび、夢まぼろしを栄養としていた節がある。

そんなわたしが、鏡にまるで知らない別人が写っている感覚を得ることは、

いちばん身近なじぶんという友人を物質的に他として認証できたというよろこびでもあった。

 

嘘はここにあるのだろうか。

遠い昔の果てのはなし、自分でも理解の及ばない感覚も思考もある。嘘はここにあるのだろうか。